HISTORY of FYC創業者 杉田明司とともに歩んだ物語
創業者 杉田明司の想いと
未来へ託したメッセージ
Akeshi Sugita
仕事は『創意工夫』。
どうすれば出来るかを一所懸命考えれば、必ず目的はかなえられる
「まじめに・正直に・隠し事は一切せずに」
これは、創循グループの創業者、故・杉田明司が、その生涯を通じて社員に語りかけ、自ら実践し続けた信念の言葉です。
杉田の歩みは、決して平坦なものではありませんでした。オイルショック、BSE(牛海綿状脳症)、口蹄疫──。時代を揺るがす幾多の荒波が、幾度となく事業に襲いかかりました。しかし、杉田はその度に「ピンチとチャンスはいつも裏腹だ」と語り、逆境の中からこそ次代を切り拓く活路を見出してきました。
情報を隠さず、誠意をもって真正面から向き合う「正直さ」。そして、常識にとらわれず、社会や顧客のために何ができるかを考え抜く「創意工夫」。このふたつが、杉田明司という一人の経営者の生き方そのものであり、今日の創循グループの企業文化をかたちづくる揺るぎないDNAとなっています。
この物語は、単なる成功譚ではありません。一人の人間が、その生涯をかけて何を信じ、何を成し、何を未来へ残そうとしたのか。社会の公器としての企業の役割を全うしようとした、その情熱と哲学の記録です。
「油脂」との出会いと九州での第一歩
1937年、大阪に生を受けた杉田明司。戦災により両親の故郷・福井県へ移った。大学進学を勧める声もあったが、「早く仕事がしたい」という強い想いを胸に、高校卒業と同時に社会へ出ることを選んだ。1956年、杉田が就職したのは大阪の油脂製品販売会社。これが、その後の杉田の生涯を決定づける「油脂」との運命的な出会いであった。
次なる舞台は、食用油脂の卸会社であった。ここで杉田は、九州・福岡の駐在員として赴任する機会を得る。中央からの情報がまだ貴重であった時代、杉田は持ち前の知識と誠実さで九州一円の油専業者から重宝され、確かな人脈と信頼を築き上げていった。この九州での経験が、杉田の中に「いつか独立したい」という経営者への志を明確に芽生えさせたのである。
時代の変化を読み「石油」へと舵を切る
転機は、思いがけない形で訪れた。福岡で懇意にしていた得意先の店主から、「油屋を俺はやめるから、お前がやってくれ」と事業の継承を強く請われたのである。1963年、福岡市にて「杉田商店」創業。これが、今日の創循グループの輝かしい歴史の幕あけであった。
独立後の事業は順調であったが、杉田の目は常に時代の先を見据えていた。「油脂販売だけでは、いずれ専業としての強みは薄れていく」。そう直感した杉田は、新たな事業の柱を模索し始める。「これからは石油がはやる」と確信し、石油ストーブ用の灯油販売という、全くの異分野へ挑戦することを決断した。1966年には「株式会社福岡油販(現・株式会社FYC)」として法人化を果たす。一個の経営者として、その非凡な才覚が大きく花開いた瞬間であった。
南九州の未来を信じ「レンダリング事業」へ
石油販売で成功を収める一方、杉田の慧眼は、九州、特に南九州における「畜産業」の大きな将来性を見抜いていた。
きっかけは、かつての取引先であった一軒の食肉加工会社との再会であった。同社が抱える経営課題の相談に乗るうちに、杉田は、牛や豚を処理する過程で出る「脂」などの副産物(レンダリング原料)の可能性に気づく。畜産業が発展すれば、この副産物も増える。ここに、動物油脂を誰よりも熟知する自身の専門性を活かせる巨大なビジネスチャンスがあると見出したのである。
新天地・宮崎での船出
レンダリング事業の本格化を目指し、杉田が次なる拠点として選んだのは、畜産が盛んな宮崎県であった。当時、経営難に陥っていた地元の魚粉会社に事業協力する形で宮崎での第一歩を踏み出したが、同社は事業の性質上、臭気などの公害問題を抱えており、地域住民との間に深刻なトラブルを抱えていた。
事態を重く見た県から相談を受けた杉田は、対応策として工場の移転を計画。県もバックアップを約束したが、一度ついた悪評は根強く、移転先の選定は困難を極めた。県が関わっても話はまとまらず、計画は暗礁に乗り上げる。
そんな折、過疎対策として企業誘致を進めていた高城町(現・都城市)から声がかかる。杉田は町長の全面的な協力を得て、ついに新工場の用地を確保。もはや移転ではなく、全く新しい会社を自ら興す道を選んだ。1973年、大手総合商社からの出資も受け、「南国興産株式会社」を設立。未開拓の地・宮崎で、グループの未来を担う新たな挑戦が始まった。
オイルショックという荒波を超えて
南国興産の設立と時を同じくして、日本経済を第一次オイルショックが襲った。石油価格は4倍に跳ね上がり、金融は極度に引き締められた。レンダリング事業は大量のエネルギーを消費するため、この危機は会社の存亡を揺るがすほどの脅威であった。
しかし、杉田は冷静であった。利益の薄い食用油の販売からはこの機にきっぱりと撤退。一方で、石油の取引先から一方的な取引条件の変更を迫られた際には、これまでの信頼関係を盾に毅然と交渉し、自社の立場を守り抜いた。この苦しい時期にこそ発揮された誠実さと胆力は、取引先との信頼をより一層強固なものにした。
前例なき「鶏糞発電」という発想
オイルショックに加え、プラザ合意による急激な円高が経営を圧迫する中、コスト削減は待ったなしの課題となっていた。エネルギー多消費型産業である南国興産の経営を立て直すため、杉田は常識を覆す、前代未聞のアイデアを実行に移す。
それは、畜産廃棄物である「鶏糞」を燃料にして燃やし、工場のエネルギーを自給自足するという壮大な構想であった。周囲からは「無謀だ」と猛反対されたが、杉田には揺るぎない確信があった。
1986年、赤字の最中にあって8億円もの設備投資を決断し、蒸気を生み出すための鶏糞ボイラーを完成させた。この革新的な取り組みは、燃料コストを劇的に削減し、赤字に喘いでいた会社を一気にV 字回復させる。そしてこの成功体験こそが、後のより大きな挑戦への礎となった。
2002年には20億円を超える投資を行い、電気をも生み出す日本初の鶏糞発電ボイラーを完成させた。この大成功は、従業員に計り知れない自信と誇りを与え、今日の資源循環型社会をリードする企業の原動力となった。
BSE危機で見せたリーダーの覚悟
2001年、日本の畜産業界を根底から揺るがすBSE問題が発生。奇しくも杉田は、業界団体の代表として英国でのBSE対策の視察を終え、帰国したその日に、日本国内での第一号発生の報に接した。
「畜産農家が困るようなことはしない。そこが困れば日本の畜産はなくなる」。その強い信念のもと、杉田は空港から自宅へ帰ることもなく、すぐさま関係各所との対策協議に奔走した。自社においては、業界の誰よりも早く、牛専用ラインの設置など、国の基準を上回る厳格な安全管理体制を導入。この迅速かつ誠実な対応は、消費者の信頼を繋ぎ止め、後の国の補助金制度設立のきっかけともなった。まさに、企業の社会的責任を体現した行動であった。
未来を創る、終わりなき創意工夫
杉田の「創意工夫」は、決して止まることはなかった。鶏糞発電で出る「灰」の処理が課題となると、これを肥料として製品化し、価値ある事業に育て上げた。
さらに、口蹄疫の悲劇を目の当たりにした経験から、感染拡大を防ぐために発生現場で迅速に家畜を処理できる「移動式レンダリング装置」を国内で初めて開発。特許を取得し、国の危機管理体制の強化に大きく貢献した。常に社会課題に目を向け、それを事業の力で解決しようとする姿勢は、生涯変わることはなかった。
社会と共に、未来へ受け継がれる精神
「社会のために役に立つ仕事をせねばならぬ」
2012年に74歳でその生涯を閉じるまで、杉田明司は常に社会と共に歩む企業であることを追求し続けた。杉田の遺した数多くの功績は、今やかけがえのない財産である。
その揺るぎない経営哲学と、「創意工夫」の精神。我々はその遺志を深く胸に刻み、社会の公器としての役割を担いながら、未来へと歩みを進めていく。
創循グループ創業者 杉田明司 記念動画 2012年5月





